話題の本を読んでみました。

遅ればせながら、"ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)"を読んでみました。なかなか面白い本です。web2.0に関して、夢のあることがいっぱい書いてありました。この本に書いてあるように、多くの人が知的活動を行い、それがネット上で共有されていくということが、私にとっても理想です。しかし、本当にそんな社会が実現できるのか、疑問が晴れません。結局のところ、それは、「不特定多数を信じられるか」という問題になります。本書でも、わかりやすい例として、wikipediaについて論じた節がある。私のずっと抱いている疑問は、「wikipediaの正しさとは、一体何によって保証されるのか」ということです。誰も管理する人がいなく、各個人がもつ時間や知識を寄せ集め、知的な集大成を築く。話を聞く限りでは、ものすごくロマンがあって、理想的です。著者が本書内で言う「(≒0)×(≒無限大)=something」の典型例だと思います。しかし、誰の管理もなく、そのような理想的な状況が保てるのかが、一番の疑問です。私は、どうしても、そのような状況がネットやweb上で形成されるのか、疑問なのです。著者も、「不特定多数を巻き込むオープンさをできる限り保ちつつ、何をどう制限していくかについてギリギリの試行錯誤が今後も長く続いていくものと考えられる。」(191ページ)と述べているように、全体の目的から逸れるようなことをする行為をどう規制するのか、この機構をどうやって構築するのか、ということが問題だと思います。
話は逸れますが、私がネット上での意見形成に興味を持ったきっかけとして、「TBS放送免許剥奪」に関する運動があります。これは、今年7月終わりごろから、「TBS放送免許剥奪」を目標として、ネット上での署名や街頭でのビラ配りなどの活動を繰り広げる、というものでした。その状況は、2chの大規模off板でもスレッドが登場し、実際の活動参加者も交えて、その活動状況について細かく書き込みがされました。その書き込みは、本名を特定できる人もいますが、基本的には匿名でした。また、匿名ではあるものの、「コテハン」という、同じハンドルネームで書き込みをすることで、同一人物による書き込みであることを示す人もいました。
私は、活動の主旨には賛同できるものとして、2chでの書き込みをみて、活動状況の進行を見守ってきました。当初はそれなりに活動も順調だったのですが、途中から、スレッド内での書き込みの流れが明らかに変わってきました。活動に伴う募金の使途が不明朗だったりしたこともあり、使途の目的に関して、それを糾弾する書き込みが増えて、活動全体の流れが、段々あやふやになってきたのです。私は、「募金した以上は、その使途に関しては、主催者側に任せるしかない」と思いましたが、その使途の不明朗さを執拗に攻め立てる書き込みがあふれ、スレッドの進行は乱されました。書き込みといっても、匿名なわけですから、誰が誰なのかわかりません。活動を進めたい人、活動の進行を妨げたい人、特に目的はないけど書き込みしたい人、など、誰が敵で、誰が味方か、わからないような状況になりました。ましてや、別人物になりすまして書き込みすることも考えられ、誰を信じたらいいのか、という状態になりました。結局、活動そのものは、そのまま終焉してしまったようでした。(ご興味のある方は、「TBS放送免許剥奪」と検索すれば、該当するwebサイトを見つけられると思います。)
無論、2chでのスレッドですから、誰が書き込んでもいいし、誰にも書き込み内容を規制する権限はありません。この活動も、本来の活動の主旨に賛同する人たちだけが集まっていれば、途中で瓦解することなく、活動を完遂できたと思います。上記の、「TBS放送免許剥奪」に限らず、一般にオープンソースの活動というのは、誰もが参加できるということが非常に有利な点であることは、明らかだと思います。しかし、活動を妨害する人や、妨害しないまでも、志や目的が同じではない人がオープンソースに加わったとき、そのオープンソースは一体どうなるんでしょうか?
結局は、オープンソースとして何らかの規範やルールがあり、その規範やルールに反するような人物や活動を排除するような機能が必要になのだろうと思います。また、全体の流れを議論し、調整する機能を設けなくてはならない、ということなのだと思います。web2.0にまつわる議論をみると、このような、「規範やルール」、「規範やルールに反するような人物や活動を排除するような機能」、「全体の流れを議論し、調整する機能」がまったく不要であり、そんなものを設けなくても、勝手に秩序が構築される、かのような印象を受けます。確かに、グループの皆が同じ目的を共有していることが明らかであれば、「規範やルール」、「全体の流れを議論し、調整する機能」などという堅苦しいものは不要でしょう。まさに、「性善説」で話が済むことだろうと思います。しかし、誰もが自由に加わりうるグループで、「規範やルール」、「全体の流れを議論し、調整する機能」をもたず、グループ全体の目的を損なうことなく活動することが可能なのでしょうか。私なりの理解としては、極端に言ってしまえば、「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)」では、それが可能であり、「Web2.0が殺すもの (Yosensha Paperbacks)」では、不可能といっているんだと思います。果たして、どっちなんでしょうか?