昨日、本屋で「Web2.0が殺すもの (Yosensha Paperbacks)」を見かけ、購入した。web2.0について、興味深いことが述べてあった。私の気になったところをまとめると、以下のとおりです。

  • 集合知はあまりあてにならない。やっぱり、「自分で考えたくないよ」って人間が大多数。

誤解を恐れずに言うと、やはり「庶民」の大多数は「衆愚」なんでしょうか? これは、私も知りたいところです。もし、「庶民」の大多数は「衆愚」だとしたら、選挙なんていう「多数決」を駆使する民主主義って、これ以上あてにならないものはないと思います。そこがすごくわかりません。多数決っていうのは、各人が適切な知識を持って、適切な判断をしないと、本当に適切な結果が得られないと思っています。「衆愚」っていうのも、大多数が、そもそも「適切な知識」を持とうとする努力をしない、のか、「適切な知識」を得られない環境にある、のか、はっきりしません。
前者であれば、もうどうしようもない・・・。ならば、どうして民主主義がいいんでしょうか。かとって、では、「誰が「衆愚」を形成している人物であるか」などと、どうやって判断するのか。
後者であれば、情報源(世論形成とう観点であれば、TV・新聞等のマスコミ)に問題あり、ってことでしょうか。いま、blog等で語られているニュースも、所詮はTV・新聞等のメディアで報じられたものあり、いわば「2次情報」です。米国では、ブロガーが大統領記者会見にまで押しかけているらしいですが、日本ではそこまではしないでしょう。国民性の違いもあるでしょうけど、一般の勤め人は「本職」があるわけで、よほど経済的に余裕のある人間でもなければ、そんなことまでやってられないでしょう。となると、そういった専門職(そこがマスコミ)の方々に頼らざるを得ないわけですが、それとて、マスコミ経由という「2次情報」というわけで、他者のフィルターにかかっているということを許容しなくてはならないことになる。

  • Webに接している時間が多い人が、web2.0的社会では勝者になる。普通の人では、仕事に忙しく、ネットなんか見ている暇がない。ネットでいろいろやっている人って、時間的に余裕のある人や、IT関連の仕事をしている人。

私は、「web2.0」を声高に言う人が、現在「TV」が握っている「世論への影響力」を奪い取り、自分たちがその主導権をとりたい、とまでは考えているとは思いません。しかし、「web2.0」を進めていくと、その世論形成力は、大きくなっていくことは間違いないでしょう。しかも、政治などのニュースでは、TV・新聞といった既存メディアへの信頼は大きく揺らいでいます。中立を装って、「意図的」とでもいえるようバイアスがかかりまくり、って状況であることに、多くの人が気がつきました。結局は、受け取る側が、「バイアス」を考慮して認識するしかない、ということに尽きるということでしょう。この文章だって、私の主観ですから。

  • web2.0的世界では、ニートみたいな、時間的に余裕のある人がトラックバック等でブログ世論を形成し、ネット経由で世論を形成していく。だから、web2.0を使いこなせない旧世代の方々は、このネットの形成する世論に参加できないし、その方々が持っていた知識なども、生かされない。

これは、今のマスコミ(特にTV)でも一緒だと思います。TVが相手しているのって、TV見るほど暇か、時間的に余裕のある人でしょう。しかし、TVを見ている暇もなく働いている人もいっぱいいます。いままでのTVって、そういった「TVを見ている暇もなく働いている人」を相手にしてこなかったのだといえば、そうだろうと思います(視聴率が取れないでしょうから)。それに、多くの人にとって、大衆へ情報を伝達する手段が、TV・新聞しかなかった状況では、TV・新聞に取り上げられなければ、そもそも伝達手段がないわけで、そこに取り上げられなかったら、ご近所程度にしか影響力がなかったと思います。ゆっくり時間をかけ、多くの人のフィルターを通過できるほどの情報であれば、個人であっても、世間全体に影響力を行使できるでしょう。TVなどのマスコミは、「時間」もかけず、「多くの人のフィルター」もすっ飛ばして、ダイレクトに大衆に情報を届けます。「古典」、「名著」などといわれる書籍なども、「時間」というフィルターをくぐりぬけるに値するほど内容が優れていたから、「古典」、「名著」なのでしょう。しかし、メディアってそんなことにはお構いなしです。となると、伝達手段を持っている人間が、もっとも強いことになります。「時間」や「多くの人」というフィルターを経ない情報っていうのは、結局のところ、「伝達手段を持っている人間」によって取捨選択されることになる。となると、手段を持たない人間ってのは、世間に対して影響力を行使できない、ことになり、場合によっては、不利な状況にもなりうる、ということなのです。
ここで、平野啓一郎氏のブログ(web2.0的世界において、「名誉」を守るということについて)で語られている「しかし、情報となる言葉を発しなければ、「正しいこと」であっても、100対0で敗北し得るのである。」という言葉の意味を改めて自分なりに考えてみる。たまたま手段を持っていないだけで、何の意義申し立てや主張もできない、あるいは、手段を持っていても、意図的に主張を行わない、という人に対して、主張しない側が一方的に不利になるような状況が認められるのか? 従来のTVや新聞と比較して、個人が意見表明できる機会や手段は多様になったと思います。それでも、完全ではない、依然として主張する人と主張しない人(あるいは、できない人)との差は存在する。結局、TVだろうが、web2.0などのネットであろうが、「声がでかく、積極的に自己主張する」人間が中心の世界ってことなのでしょうか。

  • googleといえども、「神」ではない。google八分、中国などでのネット検閲、グーグルマップでの米軍基地に対する配慮などが存在する。

結局、「機械」が自動的に中身を見て判断する、といえども、その機械を作っているのは人間です。したがって、人為的に検索結果を変更することも可能であり、意図的に検索結果を操作することも可能であるということです。そこで、「バイアス」がかかり、適切な情報が入手できないということです。いままでの「マスコミ」の偏向が、「google」などでも起こりうるし、現に起こっているということです。

なんかいろいろ書いてしまいました。今日は日曜なので、朝から2時間近くPCに向かって、いろいろと考え、ひたすら書いてました。また、自分が考えていること、疑問に思っていることがわかった気がします。