振り分けられるべき「玉」がそもそも存在するのか

今日の日経の"大機小機"欄に、web2.0に関する記述があった。「個が発する玉石混交の情報を石と玉に振り分け整理編集した上で、従来の権威的情報よりもはるかに価値のある情報に組み替える仕組み、ウェブ上の開放空間で作られようとしている。」とある。そのため、「優れたコンテンツ有するブログは、リンクを張られ増殖し社会に絶大な影響を与える」。したがって、「コンテンツは作文力が決め手であり、「知識以上に知恵」が必要になる」とのことである。私の意見としては、知識がないと、何も生み出せないから、やっぱり知識も大切じゃないの?この先を読むと、「魅力的なエッセーを創作するには・・・」とあるので、魅力的なエッセーを書くためには、「知識以上に知恵」と言いたいのでしょう。しかし、そもそも知識がないと、伝えるべき情報が生み出せないと思う。どうやって伝えるか、という手段が大切であろうが、それ以前に、何を伝えるか、ということのほうが、よほど重要だと思う。要するに、「知識以上に知恵」ではなく、「知識も知恵も両方必要」っていうことなら、まさにそのとおり、大賛成。
科学技術にしたって、何の基礎知識もないのでは、何をどうしてよいのなら、さっぱりわからないと思う。なんか、世間の人たちは、新しいひらめきのような、天才が独創的に生み出すようなものは、無から有が生じるみたいに、突然生じるようなイメージを持っているような気がする。しかし、決してそんなことはない、みんな基本的な知識を備えていたからこそ、新しいことを生み出せたと、私は考えている。web2.0にしたって、情報を発する人がそもそもたいした情報を発していないのであれば、「玉」ではなく、「石」ばかりが供給されることになる。そうすると、振り分けようにも、振り分けられるべき「玉」がそもそも存在しないということになるように思う。「玉」となるべきところは、表現のテクニックだけではなく、内容も興味深いものなのであろう。web2.0到来で、一億総表現時代が到来して、どの程度の「玉」が現れるのか、さっぱり見当がつかない。