今日2回目ですが。

大人は不純で、青少年は純粋だといふのは、はなはだ粗雑な考へ方のやうです。私は、自分の若い頃を憶ひだしてみて、青少年がそれほどに純粋だつたとは、どうしても考へられない。私は、いろいろなことを知つてゐました。また感じてゐました。両親の口にのぼるお愛想や、その生活のしかたに、ときどきうそやずるさが混つてゐるのを、けつして見のがしはしませんでした。それだからといつて、かれらを責める気にはならない。かれらはうそをつかねば生きられなかつたのだし、私自身、かれらのうそによりかかつて生きてゐたからです。当時、青少年としての私が感じてゐたことは、大人たちはうそばかりついてゐるのではなく、純粋な面もあり、うそはつきたくないと思つてゐるのだということ、さらに、そのうそのなかにも一片の真実があるといふこと、最後に、私自身、その種のうそをつきかねないといふことでした。私は総体としての大人を信じていいとおもつてゐました。
そのころも今も、私は、なんどかその信頼を裏切られました。しかし、私は性こりもなく、また信頼する。人間は総体として信頼していいのだとおもひなほすのです。
もし、青春ということばに真の意味を与へるなら、それは信頼を失はぬ力だといへないでせうか。不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失つたひとたちのものです。たとへ年をとつても、信頼といふ柔軟な感覚さへ生きてゐれば、その人は若いのです。

(福田恆存「私の幸福論」より引用、ただし、"日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)"より孫引き)

今日(平成18年9月14日)付の勝谷誠彦氏の日記(http://www.diary.ne.jp/user/31174)を読んで、ふと上の引用文が思いついた。web2.0でやっていることって、縁もゆかりもない人との信頼を前提にしているということか、と思う。無論、縁もゆかりもないとはいえ、同じ社会、というか共同体で生きている人間(当面の個人的観点からは、「日本人」)ですけどね。なんかwikipediaにしても、blogにしても、もやもやとしたものがあったけど、この「信頼」のことだ。「信頼」というものが、どうやってネットという空間で構築できるのか、しかも、お互いの素性もはっきりしないままで? これに対する自分の見解がもてれば、これからのネット社会の自分なりのかかわり方がわかってくると感じている。自分が、一度は止めたblogを、改めてはじめようと思ったのも、この「信頼」なるものがいかなるものかを、自分自身で検証したかったからだろうか。
信じていいんですよね?、ネットの「あちら側」を経てやってくる人、つまりこの文章を読んでいる、私が知らない(そして、私を知らない)貴方を・・・。