平野啓一郎氏の日記(H18.9.15)に思う

はてなの表紙に、平野啓一郎氏の日記があったので、とりあえずクリックして読んでみた。日記では、氏のwikipediaでの記述内容(「盗作」疑惑に関するコメント)から、「盗作」疑惑のこれまでの経緯説明と、氏の主張が述べられている。私は、氏の作品や盗作されたと主張する作家の作品を読んだことがないので、「盗作」疑惑について言及しない。その日記上の最後に語られていたことが気になった。

web2.0以降、「巻き込まれた人間」は、ただ黙っていても、状況を改善されず、それどころか、悪化させてゆくこととなった。重要なのは、その悪化が、必ずしも「悪意」によってもたらされるのではなく、情報に対する個々人の正当な行為の結果として、もたらされるという事実である。その状況を不当と感じるならば、自らが積極的に、新しい情報となる言葉を発しなければならない。それは、具体的な個々の情報をターゲットにして、論駁することよりも、むしろ、その情報を巡る言葉の「流れ」に作用することが期待されている。しかし、その行方は誰にも分からない。梅田氏は、web2.0的世界では、最終的には51対49であっても、「正しいこと」が勝利するのではないかという見解を私に語った。私は、私自身の具体的な問題として、この見解について今真剣に考えるが、しかし、情報となる言葉を発しなければ、「正しいこと」であっても、100対0で敗北し得るのである。

(http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20060915 より)

「情報となる言葉を発しなければ、「正しいこと」であっても、100対0で敗北し得るのである」という主張は、ネット上の書き込みを見る程度といった、私の経験に照らしても、よく理解できる。しかし、もしこの主張を認めるなら、ネット上で何のいわれもない言いがかりをつけられても、すべて本人が弁解し異議申し立てをしなくてはならないのか? たとえば、本人のあずかり知らないところで、極端な話、「○×さんは宇宙人である」みないなことが言われたら、どうなるのか???(「宇宙人」と言われて、かえってうれしい人もいるかもしれないが) たしかに、従来のTVや新聞といった媒体を中心とした時代と比較すれば、個人が世間に意見表明できる機会は、格段に増えた。だからといって、逐一反論することも馬鹿らしいようなことにまで、「反論すべし」、「反論しないのは、反論しなかった本人が悪い」、って言われたら、どうしようもない。といって反論しだすと、人生の時間を無駄遣いしている気分であるし。
確かに、あらゆることは、表現した個人の主観であるので、「そういう風にもいえる」って言われたら、どうしようもない。しかし、反論できなくても、「それはおかしいでしょ?」っていえることって、あるんじゃないの? 
盗作したかどうかなんて、本人にしかわからない。その本人が「盗作してない」って主張して、「いや、うそをついているかもしれない」なんて話になったら、あらゆることを疑いださなくてはならない。そりゃ、読みようによっては、「盗作」といえないこともないかもしれない。本人の「盗作していない」という事実と、他者の「盗作だ」という認識、こんなこと、議論して決着するんでしょうか? しかも、ネット上で、「盗作」という認識が優勢だからという理由で、「盗作」である認識が「事実」として認定される・・・。「盗作ではない」と表明している氏にとっては、たまったものではないでしょう。(以上、氏が偽りなく主張しているという前提です。) やはり、この世には「事実」は存在せず、「解釈」のみなのでしょうか?
しかも、「盗作」云々ではないにしろ、こんなことが、ネット上では誰にでも起こりうることだということが、なんとも言えず恐ろしい。そのとき、一般の会社員や学生、主婦、年金生活者、という人々は、どうすればいいの? 
今の私の認識では、この「どうしようもない」をどう取り扱うか、ここにweb2.0というか、ネットを中心とした社会を見通すキーがあるように感じる。