端的に申しますと、現在の私たちには、多数派という観念しかありません。誰もかれもが多数派のなかにもぐりこみたがつてゐるのであります。なるほど少数派というものもある。が、それは絶対的な少数派ではなく、過程的に少数派であるにすぎないのです。いひかえれば、近い将来に、それどころか、自分の目の黒いうちに、多数派になろうという考へ、あるいは多数派になれるだらうという見とほしをもつてゐる。あへていえば、潜在的多数派であります。いまは負けてゐても、近く勝てるだらうという潜在的勝利者です。したがつて、自分の主張はいまは理想主義的でも、やがては、その理想が現実に適応されるであらうという意味で潜在的現実派でしかない。

真の意味の少数派は、自分が少数派か多数派かといふ感情を、さうは気にしないはずであります。かれにとつて最大の問題は、自分の行動に論理の筋を通すということにあるのです。その結果、敗れても勝つても、しかたはない。いまは敗れても、いつかは、あるいは、自分の死後にでも、自分の主張が容れられるときがくるかもしれない。それとも、永遠に自分の敗北に終わるかもしれない。自分がまちがひを犯したのかもしれない。それでもいい、まちがひはまちがひなりに、自分の行動に筋が通つてゐれば、さう考えるのです。それでは救ひがないといふ人が出てきませう。が、当人は、神の救ひを信じてゐるでせうし、また、神の罰を信じてゐるでせう。救つてくれるにせよ、罰するにせよ、かれはその神に信頼してゐるのでせう。

(福田恆存「少数派と多数派」より引用、ただし、上は"福田恒存―劇的なる精神 (徳間文庫―教養シリーズ)"(引用者により、旧字体から新字体に変更)、下は、"日本への遺言―福田恒存語録 (文春文庫)"より孫引き)

大学院生のころ(8年前)に、生協の書籍売場にあった"福田恒存―劇的なる精神 (徳間文庫―教養シリーズ)"をみて、福田恆存なる方を知った。なぜ、その本を手に取ったのか、「死を思わねば生もいらず」という帯の文章に惹かれたのか、いまいち記憶ははっきりしない。立ち読みしてみると、それまで読んだ誰よりも筋が通っていて、すっきりしていた。なんとなく思っていたことを、はっきり活字にしてくれていたようで、うれしくなった。他の著作も読みたいと思ったが、文庫本で何冊か出ている程度であった。それでも、入手できるものは入手して、読んでみた。

院生当時、この文章だけがとても印象に残って、自分なりに生きる規範にしてきた。ここにある「神」とは、自分自身が持つ善悪、というか価値の判断基準みたいなものだと思う。それに誠実に、どこまで生きていけるのか。自分自身で常に考えている。
氏の全集もあるが、古書店で、結構いい値段がする。もっと入手が容易になると、一通り読めて、理解が深まるのだが・・・。